2011年05月25日

走る分だけ

「保険料は走る分だけ」というのはソニー損保のコマーシャル。数年前にソニー損保の保険に入っていたことがあるので、このコマーシャルが事実ではないことを知っている。○○は嘘つきだと言うとき、一般的には実名を避けるのだろうが、何分にもテレビコマーシャルで流れているのだから、当然ソニー損保だと分かるだろう。

「保険料は走る分だけ」を数式化すると、y=ax で、保険料(y)は走行距離(x)に比例する。もし実際の保険料に、定額部分があったり、走行距離に比例しない設定があったりするならば、「保険料は走る分だけ」ではなくなる。私の経験では、保険料が走行距離の多寡に依存するのは、全体のうちの一部でしかない。

ソニー損保は通販型保険と言われる方式で、営業所や代理店などの経費を切り捨てた、効率の良い形態である。言い換えると、宣伝に依存する部分が極めて大きい。その宣伝を視聴者の一人が事実ではないと表明したら、もっと強い言い方をすると、ウソの宣伝で客寄せをしていると糾弾したら、多少なりとも反論するのだろうか。もしかすると「保険料は走る分だけ高くなる」の意味なのに、聞き手の私が誤解しているのだろうか。


posted by シャノワール at 19:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月18日

国技

16日の毎日新聞のニュース争論「大相撲八百長根絶できるか」で、スポーツジャーナリストの二宮清純氏と大相撲史家の小池謙一氏が語り合った。「依然人を引き付ける「国技」ならではの魅力」の見出しで、「どこに定められているわけでもないが、「国技」と呼ばれるゆえんなのだ」と書いてある。大相撲が不祥事続きであるにもかかわらず、今なお見捨てられていないことを受けての結論だ。

世間の習慣に従って、「国技」と呼んでいる人のほとんど全ての人は、相撲とは全く無縁であるに違いない。国技の技が、スポーツ競技や格闘技の意味なら、参加してはじめて技を使うのであり、国技館へ観戦に行ったとしても、それは相撲興行の見物人としてであって、相撲をとるわけではない。相撲が好きだといっても、それは相撲を見るのが好きなだけであって、相撲をとるのが好きなわけではない。要するに、日本国民のほぼ全員は相撲とは無縁の生活をしていると言っても過言ではないだろう。

競技人口という点では、柔道、剣道、空手道のほうがはるかに多い。小中学校を例にとれば、クラスの何人かはどれかを稽古しているだろう。相撲を稽古している生徒は、多分学校でも数えるほど、多くの場合、いるかいないかとだろう。それなのになぜ国技なのか。

Wikipediaによれば、相撲を国技とすることの起こりは、1909年(明治42年)に、相撲常設館が完成した際、相撲常設館を「国技館」と命名したことからであるとされる。「開館式で作家の江見水蔭が執筆した披露文に「相撲節は国技である。」という内容が書かれていた事に由来した」という。とすると、100年の歴史があるわけだが、私は100年しか経っていない、まだ若い呼称だと考える。「国技館」と呼ぶにいたった経緯のみで、なぜ国技かという反省の無いまま、1世紀が経過したが、無気力相撲、八百長相撲、野球賭博、新弟子暴行致死事件などなど、およそ国技と呼ぶには相応しくない不祥事が多発し、八百長相撲などの根絶が期し難い今、国技と呼ぶのを止めたらどうだろう。



posted by シャノワール at 20:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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